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No Promises Await at Journey's End

【考察】人はなぜ模型やプラモデル・フィギュアを求めるのか。

朝のはとりあえず手抜き記事なので、本日は2本目です。

前回記事までに全部で4回の買取と精算を済ませました。買ったもののほぼ未開封のプラモデル、フィギュア、模型(モデルプレーン)などすべて売りました。手放しました。

「なぜ人は模型を求めるのか」

今日のテーマはこれです。プラモデルとかフィギュアとか模型を買い続けるのはどうしてなのか、少し考えてみました。

実はこの問題について私は答えを見つけています。私がよく読む作家さんである森博嗣さんの推理小説「すべてがFになる」のシリーズ「S & Mシリーズ」の中で主人公たる犀川(さいかわ)の明確な台詞があります。

「本物が手に入らないからだよ」

確かに飛行機もモビルスーツもラブライブのメンバーも本物は手に入りません。飛行機は大金持ちになって買えば手に入るのかもしれませんが、凡人にはまず無理です。

そう言われると車のプラモデルはありません。ミニカーは多少持っていましたが、やはり車は本物を持っているので買う必要がなかったのかもしれません。

かくしてガンダムのプラモデルや飛行機の模型を買い求める日々が続きました。それなりに物欲は満たしていたので楽しかったのですが、気づけばモノの山。

部屋は散らかり、湿気やカビが酷く小さいダニのような虫も発生。人間の住む場所じゃないや、と心を改めることに。モビルスーツとか言ってる場合じゃない。

tomohiko37-i.hatenablog.jp

1年前に島根から帰ってきて引っ越しの荷物を受け入れたあたりでも同じことを考えてました。とは言ってもやはり買いためたプラモデルのキットとか模型は持っていることに意味があるし、本物が手に入らない以上は買い続けるしかなかったのです。

考え方が大きく変わったのは意外にもこれです。

「本物があるじゃん」

そう感じたのが島根から帰ってきてユニコーンを見てから1年経過して先日見に行った時のことです。

「ここに来れば、本物が見れる」

この気づきがもう一つ思い出させてくれたことがあります。

「月に2,3回は本物の飛行機を見に行っていたんだ」

羽田空港には何年も通いつめていたのに当たり前になりすぎて気にもしていませんでした。

そう気づいてからは早かったです。

考え方を少し変えれば手放せるかもしれない。

と思いました。ちょうど1年4ヶ月ぶりに島根に行って思い出に浸りながら懐かしい人たちにお会いして、少し心が落ち着いたのかもしれません。

自然とこの本を手にとって読み返していました。読み終わる頃にはもう何の迷いもなく買い集めたプラモデルや模型を売りに行くため、車に荷物を積み込んでました。

数年来溜め込んで、たった2週間で休みを利用して売り払いました。約半分のお金が戻ってきた感じです。半分は買って物欲を満たしたことで使った金額だと思いますので、損をしたとは思いません。本物があろうがなかろうが、一度は買って満足したものなので所有していたことを否定する必要はないのです。

単に自分には必要がなくなっただけ。本物がいつでも見れるのであれば、見れない人の元へ飛び立ってもらう方が健全です。

だが、待って欲しい。

μ'sやAqoursのメンバーは本物はいないぞ!

そうです。アニメの世界なので本物はいません。最近、東京ドームでのライブとかありましたが、あれは中の人です。全く興味が湧きません。

ですが、勢いでラブライブ!の関連フィギュアも売り払いました。これに関してはどうなのか。説明責任が問われます。

「心がときめかない」

これに尽きます。現在、読んでいる「人生がときめく片づけの魔法」(近藤麻理恵・著)には「持っていて心がときめくかどうか」が捨てるかどうかの判断基準としています。改めてフィギュアを手にとってると、特に心がときめかない。ラブライブ!はアニメとして面白いと思ってますし、曲も素晴らしいものが多いので頻繁に聴きますが、フィギュアではその「ときめき」は得られなかった。

だから捨てました。というか売りました。フィギュアでときめく方の元へ巣立ってもらった方が有用でしょう。

こうして買ったままになっていたものは処分し尽くしました。あとは本当にゴミとして捨てるモノがたくさんあるので捨てます。それと本をScanSnapで自炊していくことも再開します。すでにここ数日で結構やっていますが、手放すにはもっとたくさんやる必要があるのです。

まずは徹底的に捨てます。